コラム
ものがたり
「名刺がほしい」。金庫破りの男が語った。昭和X年高度成長期、金庫には札束が積まれていた。大金を獲て金満家になりすまし、銀座で豪遊。名刺交換をする社用族を見て、身分証明がない自分を思った。清算のため現金を出した。「キャッシュですね」と支配人の一言に興醒めた。裏稼業が見透かされた気がした。クレカが作れないわけではない。自分証明のために住民票を取り寄せるものならすぐ足が付く。匿名で生きるのに居場所が割れ、素顔がばれるのは命取りである。でも惚れ込んだ女性と同棲もした。その都度、足を洗い一緒に暮らしたいと何度か思ったが、正直に身を明かせなかった。パイロットになりすまし、欧州出張と言って出かけ、裏稼業を続ける日々。女性と親密になるほどにウソで身を固めたが、長くは続かなかった。
片や、暴力団幹部の男は周囲の者たちに映る自分の印象が大事と語った。配下の者が組御法度の覚せい剤に手を出して逮捕された。留置場から脱退届が送られてきた。保釈されたが組に挨拶も弁明もない。居所を訪ねると、“脅された”と警察に泣きついた。これを放っておいては幹部としての力量が疑われる。組の者にしめしがつかない。組が軽く見られる。信頼できる者を引き連れ、ケジメをつけるため居所に乗り込んだ。思わぬ反撃に逆上して相手を棒で滅多打ちした。翌日、組長に経緯を打ち明けた。その場で被害者の死を知らされ、「汗を流して行け」と、叔父貴から小遣いが渡された。歓楽街で一夜を過ごし、二人で警察へ出頭した。被害者は組や男に実害を与えたわけではない。重大犯罪までして男が守ろうとしたのは面子である。面子は人々の心の中にのみ存在する印象や評判である。それ自体儚いものだが、男の生きる世界では面子が潰されると危機を招くと見なされた。
人の語りを理解する物語理論がある。物語は経験を時間軸に沿って場面と登場人物を絡め、筋立てたものである。逸脱や失敗の際、人は自分なりに意味づけた弁明の物語を周囲に語るとされる(ジェローム・ブルーナー)。塀の中で受刑者たちは利するとは決して思えない犯行についての弁明を面接者に語る。匿名や面子という一見対照的な男たちの生存戦略の語りも自分という存在を相手に伝える自分物語であろう。男たちの生き方に幾許かの変化をもたらすためには、語りにじっくり耳を傾け、ダイアローグを通して一緒に理解を深める必要があった、と今になって思う。(山入端 津由)
※事例の情報を本質が変わらないよう部分的に変更し、個別事例が特定できないよう配慮しています。