コラム
境界線を引くこと、引かないこと、引き直すこと
犯罪を研究するとき、当り前とされていることがある。
「境界線」を引くことだ。
犯罪をするかしないかの境界線、犯罪者かそうでないかの境界線、犯罪が起きたか起きなかったかの境界線。
研究者は、できごとや人が、境界線のどちら側に、どうして、落ちるのかを研究していると。
「犯罪をなぜするのだろうか」、「犯罪者にはどんな人がなるのだろうか」、「犯罪はどうして起きたのだろうか」。
こうした問いの前提が、境界線である。
いい人と悪い人の対比というのは、私たちに染み付いたものだ。舌切り雀に出てくるいいおじいさんと悪いおじいさん、水戸黄門と悪者、仮面ライダーとショッカー。
ところで、境界線を引くことは、私たちにとって、有益なのだろうか。
彼我に差があるという「前提」は、さまざまな分野で、私たちの目を曇らせてきた。
男女の境界線は、私たちがLGBTを認めることを阻んできた。
大人と子どもの境界線は、私たちが子どもの権利を実現するのを阻んできた。
障がい者と非障害者の間の境界線は、私たちが発達障がいと出会うのを阻んできた。
政治家と市民の境界線は、政治に対する信頼を阻んできた。
犯罪と非犯罪の境界線は、何を見えなくさせてきたのだろう。境界線を引かないことで見えてくるもの、境界線を引き直すことで見えてくるものは何だろう。
「いい」人と「悪い」人が実は大して違わないこと。自分が「悪い」人となっていたかもしれないこと。「いい」と「悪い」は実は簡単に線引きできないこと。
そもそも、何が善で何が悪なのだろうか。
そうやって考えると、「当事者」のお話を聴くという作法自体が、境界線を強化していることに気づいたりする。
治療と回復、排除と包摂・・・これらの概念も見直されるに違いない。
だって、何が善で何が悪なのか自体が再定義されるのだから。
「犯罪」と「非犯罪」の間の境界線を引き直し、新しい「はんざい」学をつくろう。(津富宏)